雑記3 食欲について気づいたこと2つ

前書いた記事で、 自分で自分を認められるようになる→自分のやりたいことができるようになる→そっちが楽しくなり、自ずと食べる暇が惜しくなる。 という「三度の飯より〜が好き」方式で、食欲に振り回されなくなった状態を説明したが、自分を認めることと食べ過ぎることとの間には、もっと直接的な因果関係があったことが今ではわかる。

今まで、惨めな自分を慰めるため、嫌いな自分を忘れるために食べていたことがわかった。

普段から自分を自分で認めて、自分の責任で自分を甘やかすようにしたら、食べることで自分にご褒美を与える必要がなくなった。

「自分へのご褒美で食べていた」、ということがわかったので、食以外でご褒美を与えることもできるようになったし、意識してご褒美のために食べる、という選択も、はじめてできるようになった。

物事、わかると、どっちでもよくなる。そしてどっちでもよくなって、はじめてどっちも選べるようになる。

俺が食べたいからではなく、自分の中にある他人の意見で食べていたことにも気づいた。そんなにお腹すいた感覚はないのに「タンパク質を摂取しなきゃ筋肉が衰える」とか、「この後仕事だからスタミナが持たないぞ」とか頭で考えて、食べる。

考えて、と書いたが、そもそもこれらの考えは、試すこともなく勝手に採用していた、単なる誰かから受け売りの知識でしかなかった。つまり、自分で考えてすらいなかったのだ。

試しもせずに他人の意見に従っていたのは、結局のところ、失敗するのが怖いからだと思い至った。失敗の責任をとるのが怖いのである。

しかし今は、失敗したとしても、失敗した自分を許せる自分がいる。

それに、そもそも失敗したとしても、果たして今以上悪くなりえるのか?という疑問もある。

何度も書いているが、「できる」は「できない」、「わかる」は「わからない」、「成功」は「失敗」で浮き彫りになったものでしかない。 失敗は成功のもと、という諺があるが、もっと言えば、失敗は成功なのである。

失敗が失敗のままなのは、失敗を受け入れないからだ。失敗したら責任をとらなければならない。怖い。しかし、はじめから失敗を避ける選択をしても、その結果生じる現状には責任をとらなければならない。そっちは、身をもって学んだ。 どちらにしろ責任から免れることはできないなら、自分のやりたいことをやって、自分から責任を取りに行った方が、断然爽やかだ。

世の中、真っ向矛盾したような言説が溢れているが、自分の責任で選べば、全部正解だと思う。そう考えるとワクワクしてくる。ひょっとしたら、これを自由と呼ぶのではないだろうかと思い至った。

続く