ていねいに食事する

最近意識している事は「ていねいに食事する」だ。 いかにも意識高い系フレーズだが、俺の場合、意識せざるをえない状況に陥った。というのも、雑な食事をすると、食後、異常にお菓子が食べたくなる事がわかってきたのだ。

モチばかり適当に食べていた正月明けがピークで、昼食後、満たされない思いを抱え、近所のスーパーを三店、ゾンビのように一時間ほど徘徊した末、雪の宿(24枚)、キャラメルコーングラノーラを買い込み、2時のおやつで全部平らげてしまった。後悔は一切ないが、その後さすがに心身共に苦しく、何日かイライラも続き、「こんな事続けていたら気分悪いし、死ぬ」と思い至り、異常食欲の原因を探った結果、上記の結論に落ち着いた次第である。(暇人説もあるが)

「ていねいに食事をする」が具体的にどーゆーことかというと、お腹がすいて食べたいと感じた時に、その時の自分が食べたいものを、落ち着いた環境で、食事に専念できるよう支度を整え、美味しそうに盛り付け、それが一番美味しく感じる温度で、よく味わって、感謝しながら食べる。などなど。目指すのは、体と心が、底から満たされる食事。
今のところ気づいた丁寧ポイントはだいたいこんな感じだが、逆に言えばこれまでそーゆー意識を欠いた食べ方をしてきたことになる。
つまり時計に合わせた時間に、半端な健康情報に基づいた献立による、熱過ぎてよく味のわからない炊きたてご飯と、なんとなくで調理した、スーパーの在庫管理の都合に合わせた半額の食材のおかずを、準備型付けが楽なように丼一つのスタイル、散らかった机の上で、食感も無視し、犬のようにがっつく。あるのは効率と薄っぺらな損得勘定だけで、そこに情緒は一切ない。それでいて頭では「俺は食事にはこだわっている」とか思っていた。思考と実際の分裂にぞっとする。


この「こだっている」が一つひねくれていて、つまり、食事にこだわらないことにこだわっていたのだ。テキトーで結構、食事の美味しさは形ではなく食べる人の心持ち次第、的な考えに憧れていたのだが、実際には、そういう考えは一通り美味しい食事とはなにかを知っている人の「境地」であって、「簡単そうに見えることが実は一番難しい」という、ギターや歌などの芸事でお馴染みの、高いレベルの話だと気づいた。翻って自分の食べることについてのレベルをもう一度冷静に分析したところ、超初心者、自惚れまくりの勘違いヤローに過ぎないと思い至った。自分の中を探してみたのだが、そもそも「これが美味しい。こう食べると満足感を感じる」という感覚すら欠けていた。

自分は何も知らなかったと知るのは辛いが、それを知った時はじめて知ることがはじまる。そして、この知りたいという強烈な衝動は、知ったと思うまで止めようがなく、さらに、この知るという過程がとんでもなく面白いことは、発声やギターで既によく知っている。かくして、食べることについての探求が始まった。