「努力して得たもの以外に価値なし」という価値観を今まで持っていたのかもしれない

鳩山をやめ、ライブ活動からも遠ざかり、以前より客観的に鳩山を見れるようになって、しみじみ思ったことがある。
「鳩山って、スゴクネ?」笑?

動画見ても、こんな弾き語り、ちょっと他には居ない。それに過去、鳩山に「イイね」を押してくれたミュージシャンの顔ぶれの凄まじさ。これを無視するのはもはや謙虚ではなく不遜でしかないと思う。 今になって俺の中の鳩山評価が高まって来た。 ? ? ?…ということは、今までは自分のことを評価してなかったんだなーと、はじめて気づいた。やめてみてわかることって、ほんと色々あります。


この自己評価の低さはなんだったんだろうか?そんなことを考えながら生活していて思い当たったのがタイトルの件だ。俺は今まで、頑張って手に入れたものにしか価値はないと思い込んでいたのかもしれない。そうだとするとこの自己評価の低さと辻褄があう。 俺にとって弾き語りは、最初から当たり前にできたことで、今に至るまで、なーんにも努力していない。顧みると、ギター持った時から、何故かギターの弾き方を知っていたし、初ライブから、何故かいきなりバカ受けだった。それなのに、他の人と違うとは薄々感じていたものの、自分を凄いと思ったことは何故か一度もなかった。


努力と価値は比例するとは限らないことは家庭菜園で学んだ。栽培難易度の高い野菜ほど美味しいとは限らない。タネもまかずに毎年ボーボー生えるシソの香りがそれを証明している。日本人の命を支える米などイネ科の植物は雑草のようにたくましく育つし、大豆はやせ地で育つ上に土を豊かにすらする。 むしろ自然界は、往々にして、価値あるものほど満ち溢れている。雨はタダだ。 なきゃ死ぬのに、空気に感謝を感じるのは難しい。それと同じように、空気のように当たり前に存在していた自分の弾き語りの才能に対して、今まで有り難みを全然感じていなかった。 どれだけすんごいミュージシャン達が「イイね」と言ってくれていても、誰よりも鳩山君の近くにいる、他でもない自分自身が、鳩山君のことを評価していなかった。これじゃライブ活動がままならなかったのも無理ないわと、今になって思い至った。自分が評価していないものを自分から出て行って他人に見せてまわって、他人の評価を貰おうとしてたんだから、やってることに無理がある。 空気がどれだけ当たり前に溢れていても、その存在に感謝して感謝しすぎることは決してないように、これからは自分に何故かこーゆー弾き語りができることに感謝し、自分自身が一番の鳩山さんファンになり、一番鳩山さんを楽しみ、誰よりも鳩山さんのことを評価していくことにした。

売るために作ったわけでもない、採れすぎてとても自分一人では食べきれない旬のナスやキュウリを友達に配って歩くような、そんなライブをこれからはしていきたい。