壊れた楽器を使い続けると、練習するほど下手になる説

ロルフの第七セッションで、カチカチだった首が、だいぶ動くようになってきた。

それにリンクして、前回の記事③の声の出し方が明確になった。出し方がわかってから顧みると、以前の体じゃ、どれだけ頑張ってもこの声の出し方はできなかったなーと思う。つくづく、楽器を練習するより先に、楽器自体を弾きやすく、よく鳴るようにメンテナンスすることの大事さを、文字通り体感した。

 

身体は、全身のパーツが、相互に連動して、働いているという。全身のパーツが、各自、各々の働きを全うするのが理想の体だけど、あるパーツがくたびれて使えなくなっても、別のパーツがそのパーツの働きをカバーすることで、全体としてはとりあえずどうにか動けちゃうし、生きていける。

この融通の利き方が身体の素晴らしさだけど、反面、芸事ではマイナスになる。

 

例えば声は、どんな出し方でも、とりあえず出ちゃう。しかし、例えば首が固まっていたら、あごは引けない。あごが引けないと、声帯をリラックスしたまま伸ばすことはできない。その状態のままで響く声を出そうと頑張ると、負担は声帯へ行き、結果、喉がかれる。(すごく大雑把に言うと)

 

つまり、体の中の使えない部分が多いと、発声練習すればするほど、体の使える部分だけを使った、偏った発声が身につくということになる。

平たくいえば、練習すればするほど下手くそになる。

そしてそのことは、声に限らず、ギターやピアノ、体を使う全ての行動に当てはまることに思い至り、ゾッとする。

 

練習すればするほど下手くそになる体と、練習すればするほど上手になる体。

もしかすると天才と凡人の違いとは、才能の違いというか、体の違いなのではなかろうか。

もしくは才能というのは、体の内容、使い方のことを指すのかもしれない。

才能と言われたら先天的なもので諦めるしかないが、体なら、後天的に変えられる可能性がる。このことは、自分のような凡人にとっては、とてつもない希望だと思うのだ。