活元運動をはじめた その五

自分の中心がわからない、背骨がどこを通っているのか感じ取れない事は、自分でわかっていた。しかし背骨の右の力みに気付けた今、その力みを手がかりに「力みの左側」という形で背骨に意識を向けてみる。何も感じない。しかし、何も感じない、ということ自体に意識を向け続けるとオヤオヤッ、身体の他の部分が勝手に動きはじめるではないか。今まで働いてなかった左脚の付け根がピクピク頑張り出したり、左のアバラが伸び出したり。どれも、未体験のような、懐かしいような、心地いい感覚だ。

今度は、それら身体の中の動きが起こる場所に、なるべく早く長く、意識を向けて留めることに集中する。なかなか上手くいかないが、やるうちに、意識の置き場のヒントになる感覚が増え、置き場自体もクリアーになっていき、未体験ゾーンが開拓されていく。

わかるとは、わからないで浮き彫りになったものでしかない、と誰かが言っていたが、まさにそれを、言葉ではなく、自分のナマの感覚として体験する。これを俺は身体で考える、と呼んでいる。
わかったらどうなるのか?と言われたら、それがわからんからやるとしか言えないのだが、この夢中になれる過程自体が楽しいし、浮き彫りになった「わかった」が姿を現した瞬間は、天からレベルアップを告げる祝福のファンファーレが鳴り響き、一瞬前の自分と全く違う新しい自分に生まれ変わったような、強烈な気分の高揚がある。ギターも歌うのも、この楽しさがあるからやっていると言っても言い過ぎではない。