発声法=健康法?

壊れたギターで練習する前にギター自体をリペアするように、声の出し方以前に体を整える事に重心を置きはじめた鳩山メソッド。

発声法というより、健康法みたいになってきた。




ところで健康法には、脱力と同じジレンマがある。

直接脱力はできない - 鳩山メソッド研究所



力を抜こうと意識した瞬間に、意識したせいで力が入っちゃうように、
「健康になろう」と意識した瞬間に、同時に無意識では「自分は不健康」だと思ってしまうのだ。

本当に健康な人というのは、そもそも健康法のことなんて考えたことすらない人のことだ。

この無意識での否定が、健康へのブレーキになってしまう。




脱力の場合、脱力することを直接の目的にすると脱力できない。力をいれるべき別の場所に意識を向けることで、結果として、間接的に、力が抜ける。


それと同じように健康法も、健康になる事を直接の目的にするとうまくいかない。


健康自体ではなく「健康になったら何をしたいのか」の方に意識を向ける。

そうすると、無意識の反発を食らうことなく、その健康法を知らず知らず続けられ、その結果として、気付けば健康になっている、という段取りになっている。



そう考えると、ボイトレって優れた健康法かもしれない。より響く声を目指す試行錯誤が、そのまま健康法になっていると思うのです。

この説を検証すべく、今後、健康法としての発声法を、色々実験してみようと思っている。

鳩山メソッドは歌の才能の無い人のためのメソッド

「弾き語りをはじめたい」という人にギターを教える機会があった。

「弾き方がわからない」というのだが、どこが、どうわからないのかが、なかなかわからなくて難儀した。

弾き語りなんて「コードとメロディさえわかれば、あとは適当に弾けばいい」くらいの認識だったのだが、「あとは適当に」の部分が肝心のわからない部分で、どの弦を、どの順番で、どの指で、どう弾くか、1から順に、具体的に伝える必要があることがわかってきた。

無意識にやっている事を言語化して人に伝える難しさと楽しさを、逆に教わった。



顧みると、ギターは、弾き始めた時から何故か弾けた。

一方歌は、物心ついた時から、何故か苦手意識しかなかった。

でもある時、それ以上に歌うことが好きだと気付いたので、歌いはじめた。


歌いはじめたものの、自分の声に劣等感しかないし、伸ばすべき個性も一切見つからない。

だからボイトレしようにも「いい声を出す」ではなく「悪い声を出さない」ことによって、自分の中にあるはずの「未知のいい声」を浮き彫りにする、という方法論しかなかった。

「さっきより響いているか否か」「さっきより楽か否か」という、自分の体の中にある、疑いようのないと思われる感覚だけを頼りに、試行錯誤を重ねた。

その試行錯誤の折々で見つけた発声法、というか試行錯誤のやり方、試行錯誤そのものを、「鳩山メソッド」と呼んでいる。



才能がゼロなので「なんとなく」声を出す自信が一切なかった。

だから間違いようのない体感だけを頼りに、1から手探りで、自分で、自分に、声の出し方を教えてきた。

手間はかかる分、気づきも多かったし、今となれば、そこに価値があるんじゃなかろうかと思っている。






鳩山メソッドは声の出し方のハウツーでもあるんだけど、それ以上に、声の出し方のハウツーを自分で見つけるためのハウツーだ。

ハウツーもさることながら、それを自分で見つけること自体の楽しさと、見つけたときの喜びの経験を共有したい。


鳩山が鳩山に教える発声法だから「鳩山メソッド」だけど、鳩山メソッドを通して、小沢メソッドなり、管メソッドなり、各々が、各々の発声法を見つけていってくれたらいいなーと思っている。

ボイトレとRPGは似ている

ボイトレは1歩づつしか進めない。

まどろっこしいようだけど、こんな救いはないと思う。

どうせ1歩づつしか進めないのだから、一歩だけ進めばいいのである。

 

 

ボイトレとロールプレイングゲームって似てる。

レベルアップの過程なんて、ボイトレもドラクエも一緒だ。

 

経験値を積んでる最中は変化ないけど、ある値を越えた瞬間、天からファンファーレが鳴り響き、突然、今まで使えなかった技を使えるようになっている、さっきまでの自分とは明らかに違う、新しい自分がいる。

このレベルアップの瞬間の喜びが、ボイトレの醍醐味だ。

 

 

駆け出しの勇者の村の周辺にはスライムしかいない、というのも、考えてみたら良くできている。

別に、冒険を始めた村が、いきなり超凶暴なモンスターが群れる地方でも不思議じゃないはずなのに、そうでない辺りが神の采配だと思う。

 

ボイトレも、とりあえず目の前のスライムを倒していけばいいだけだと思えると、気が楽になる。

大事な部分は目に見えない

口を開けようという意識自体が、力みになって、発声の障害になっている。

声を出している時点で、意識しなくても、口は開いている。

意識すべきは口を開ける事ではなく、喉を楽にさせたまま声を出す力を発動させる事。

そちらに意識をおけば、余計な力の抜けた口は、その時々、自動的に、一番いい大きさに、あく。




ピックを振り下ろそうという意識自体が、力みになって、ピッキングの障害になっている。

ギターを弾いている時点で、意識しなくても、ピックは、振り落ちる。

意識すべきはピックを振り下ろす事ではなく、落ちたピックをあげる事。

そちらに意識をおけば、余計な力の抜けたピックは、重力で、その時々、自動的に、一番いい分だけ、落ちる。




大事な部分は目に見えない。

それはハウツーというより、それ以前の意識の置き所、コツのようなものだ。

それさえわかれば、ハウツー(口の開け方とか)は自ずと導き出される。


このコツを見つけるたびに
「誰かに教えて欲しかった」
とか思うんだけど、それでも一人でやってるのは、見つけていく作業自体が好きなんだろうなー、と思う。

直接脱力はできない

口を開けなくても声は出せることに気づいた。

正確にいうと、口を開けようと意識しなくても声は出せることに気づいた。

意識しなくても、声が出ている時点で、口は開けられているのである。

むしろ口を開けようという意識が、あごに余計な力みを生み、喉を楽にさせたまま声を出すための力の発動を邪魔していることに気付いた。


口を開ける事を意識しないかわりに、喉を楽にさせたまま声帯を引っ張る力に意識を置く。

その結果無意識になった口は、余計な力が抜け、その時々、ちょうどいい分だけ、自動で、開くようになる。
 


脱力は直接はできない。いくら「抜け」と言われても、「抜こう」という意識自体が力みになってしまうという矛盾に陥る。

脱力は、別の力が入るべき場所に力が入ることで、間接的に起こる。

対案のない反対意見には、事態を変える力はない。ボイトレをすると、それが体でわかる。

ボイトレのすすめ

「わかる」とは「わからない」で浮き彫りになったものでしかない。

「わかる」と「わかったつもりになる」は全く違う。

「わかったつもり」になった瞬間に、「わかる」に至る道は途絶える。

「わかったつもり」=「わかってない事がわかってない」だ。


ではどうやって「わかった」と「わかったつもり」とを見分けるのか?

本当にわかったときには、確信が伴う。


何故ならその理解は、外から与えられたものではなく、自分の中からわき出たものだからだ。

砂糖をなめて甘いと感じるのと同じくらい、間違いようがない。



ボイトレをしていると、この「わかった」瞬間を何回も味わえる。

本当に「わかった」瞬間には、純粋な喜びが伴う。この喜びは絶対的だ。何故なら他人と比べて得た喜びではないから。

「将来に備えて今なにかをする」事を一切できない俺がボイトレを続けてこれたのも、この喜びを知っているからだ。

他人と比較さえしなければ、ボイトレには楽しさしかない。

レベルが1から2にアップするのも、101から102にアップするのも、同じだけの喜びがある。

逆に、他人と比較した瞬間にボイトレは地獄だ。

「できる」とは「できない」で浮き彫りになったものでしかないので、「できない」を理由にやらないのは、とてももったいないことだと思う。



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体を整える

発声法以前に、体自体を整えることにシフトチェンジした鳩山メソッド。方向転換に手応えを感じている。

 

今までの俺は、ギターに例えれば、ブリッジが外れたフレット音痴のギターを一生懸命弾いてるようなものだった。

 

体が整うほど、簡単に弾けるし、軽いタッチで音がボディに響く。ズルい位の感じである。

 

ギターにしろ発声にしろ、うまくなることって、難しい事を頑張ってできるようになることじゃなくて、難しい事を簡単にできるようになることだと思っている。

 

弦を押さえる力を頑張って2倍にするんじゃなくて、半分の力で楽々弦を押さえる方法を見つける作業を練習と呼ぶ。

 

とすると、うまくなるためには、練習より先に、弾きやすい楽器を使うなり、楽器をリペアした方が、はるかに効率がいい。

 

ギターを調整してもギターが弾きやすくなるだけだが、体を調整すると、声に限らず、日常の所作全般の質が向上する。ギターもうまくなるだろう。根っこに働きかけるって大事だ。